前回の MoMA QNS に続けて、今回も美術館の話を紹介するつもりでいたのだが、特別に中身を変えて更新することにした。
来日したこともある、Celia Cruz が亡くなった。
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| マイアミから駆けつけたCeliaの姪。撮影:Powershot G2 |
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| ミサの行われたセント・パトリック教会にはたくさんの人が集まった。撮影:Powershot G2 |
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| 5th Avenue はすべてバリケードが張られた。撮影:Powershot G2 |
Celia Cruz という名前を耳にしたのは、僕も New York に来てからで、それまでは当然聞いたこともなかった。
日本の人で知っている人がいるとすればその人はサルサ通な人に違いない。日本でもここ何年か根強いサルサ人気が続いているようなので、もしかしたら僕が想像している以上に知られているのかもしれない。
彼女の別名は「サルサの女王」だった。
サルサ音楽の由来についてはいろいろ諸説あるものの、たいてい「 New York で Puerto Rican や Cuban を中心に生まれた新しいリズムと音楽」と称される。なぜそれが Puerto Rico や Cuba でなく、アメリカの New York なのかというのはアメリカとキューバ2国間の関係にまで話がさかのぼる。キューバでカストロによる革命が起こると、それまでキューバを属国のように取り扱っていたアメリカは投資した資本が新政府によって国有化されたことに腹を立て、経済封鎖を行ったり、キューバ危機のような戦争まで一触即発の状態にまで2国間の関係が悪化した。その結果、それまで割と自由に行き来できたキューバが突如「近くて遠い国」になってしまった。
国交が途絶えるとアメリカにいるヒスパニックの人たちの間で新しい音楽を作り出そうとするムーブメントが起きた。こうしてキューバの音楽をベースに New York で Puerto Rican や Cuban を中心に生み出された音楽がサルサだったのだ。
Celia Cruz はキューバ生まれで、キューバ革命を機にアメリカに亡命してきた、ということであるから、サルサ黎明のときからの立て役者の1人でもあるのだろう。キューバにいるときから既に成功を収めていたというから、50年近く ( 以上? ) サルサを歌い続けてきた人なのだ。
そんな彼女だが、実は日本にもコンサートで訪れたことがあるという。今から10年ほど前のことだが、ティト・プエンテ ( Puerto Rican、故人 ) というこれまた当時を代表するサルサ演奏家の1人と一緒に日本に招聘されたようだ。彼女が日本でコンサートを開いたことは彼女の追悼番組でも取り上げられていた。
ミサは日曜日に行われた。
ヒラリー・クリントン上院議員、ジョージ・パタキNY州知事、マイケル・ブルームバーグ NY 市長など政界の要人を始め、グロリア・エステファン、フリオ・イグレシアスなど多くの人が参列し、テレビもそのための追悼番組を放映した。
この週はたまたま友人 ( 彼も cuban ! ) の家族が Miami から New York の友人のアパートを訪れていたのだが、あまりに多くの人が St Patrick 教会に集まっているというので、テレビでその様子を見ることとなった。3大ネットワークチャンネルでもこの様子を紹介していたが、そういうわけで今回紹介しているのはヒスパニックチャンネルで放送していた様子をデジタルカメラで撮ったものだ。老若男女多くの人たちが歩道を埋め尽くし、その多くはやはりヒスパニックだ。もともとサルサは Puerto Rico の音楽と言われており、この日も Puerto Rico の旗を筆頭に Mexico や Dominican Republic の旗を持参している人の姿が目に付いたが、彼女自身が Cuban ということもあり、キューバの国旗を振っている人の姿をこの日は特に多く見かけた。
偶然ではあるけれど、この日の天候は晴れだったのだが、このミサの間は前が見えないくらいの土砂降りとなった。「空も泣いている」とはテレビでインタビューからの質問にされた人が答えていたのだが、同じセリフが翌日の新聞の見出しにもなったほどの大雨だった。僕と友人はその間僕のアパートと同じブロックにあるブラジル料理のファーストフードに食べに行ったのだが傘を差していても全身びしょ濡れになるほど。ところがミサが終わると同時に青空が見えてからりと晴れたのには、迷信を信じない僕でもちょっと驚いた。
ミサのあとは彼女の棺は5th Avenue を通ってファンと最後のお別れとなったが、5th Avenue は延々とバリケードが張られており、夕方メトロポリタン美術館に行ったときもまだそのあたりにバリケードがあったのでかなり長い距離をたくさんの人が詰めかけていたことがわかる。St Patrick 教会は 51st Street でメトロポリタン美術館は82nd Street なのでその距離だけでもすごいが、さらにそのバリケードは北に延びており、考えてみるとこれより北に行くと Spanish Harlem ( 通称 El Barrio ) に入っていくので多くのヒスパニックの人たちが沿道に来たのだろう。
本人の希望で彼女は The Bronx にある墓地に埋葬されることになった。

Celiaの訃報が伝えられるとすぐにSpanish Harlemではミューラルが描かれた。撮影:EOS 10D
彼女の写真を探していて www.amazon.com を調べてみると、上の写真のベースになっている CD ジャケットが見つかった。服装からして、「 Siempre Vivire 」を見ながら描いたんじゃないだろうか。写真では金髪だが、この壁画では青色になっている。これは彼女が緑色や青色などの wig をつけてステージに上がることがあったため、そのイメージが強くてこの色にしているのではないかと思う。
ちなみに amazon.com での Latin Music チャート上位10枚の CD のうち5枚が Celia Cruz のものとなっていた ( あとの2枚に Buena Vista Social Club の CD が含まれているが、Celia Cruz の亡くなるちょっと前にメンバーのの中の Compay Segundo も死去したのだ。彼も Cuban )。ラテン音楽界でいかに彼女の存在が大きかったかを物語っている。
ミサの翌日の新聞にも大きくその様子が取り上げられており、いろいろな著名人のコメントが寄せられていた。これはその中の一つ、彼女のマネージャーのコメントである。
「 Celia、あなたはキューバを離れたが、あなたからキューバが離れたことは片時も無かった」























