2006年6月アーカイブ

Bilingual

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▲英語もスペイン語も自然に使い分ける子供たち。 ( 写真はわざとぼかしてあります )


最近自分の国語力が著しく低下していることをつくづく痛感している。


普段はそうでもないのだが、日本の人と話をしていると言葉に詰まることが多く、「 あれ、なんて言うんだっけ? 」 と自分が言おうとしている単語や熟語を、相手に思い出してもらったりするのだ。

言葉は使わないと錆び付くというが、まさにその通りである。
かといって 「 でも英語がうまくなったからいいんじゃないですか? 」 と言われるとそれにも首をかしげてしまう。

確かにアメリカに住んで5年目くらいまでは、知り合ったばかりの人に 「 アメリカに住んで何年? ○年にしては上手ですね 」 などと言われたりしたものだが、それは 「 在住○年にしてはマシな方 」 という意味であって翻って言えば、「 ああ日本人風アクセントの強い英語を話すね 」 と言われているのと同じ事なのである。
ところが10年近く経つと 「 ▲年でそんなに話せるなんてすごいですね 」 とはもう誰も言ってくれなくなる。やはりこのぐらい長くなると、少しくらいまともな英語が話せて当たり前という認識に変わるからであろう。


日本語を使う場面において、一番危ういのがビジネス会話かもしれない。
仕事ではほとんど英語しか使わないのだが、ときおり日本語で日本のクライアントとメールや電話でやりとりする機会がある。
日本で働いていたときはあれほど自然に使っていた、ビジネス会話やビジネスマナーはこちらではほとんど使用しないために即座に出てこないことが多くなった。
普通にこうしてブログに書くような砕けた文章であればそうでもないのだが、仕事で書かなくてはならないメールになるとそれこそ時間ばかりかかってしまい、とたんに生産性が落ちてしまうのである。
それゆえ、ATOK2006 をオンラインで購入して使用しているのである。ATOK を使用すると簡単な文法のチェックが行われ、誤用を指摘してくれる。また類義語だけでなく連想変換という優れ機能もあってこれなくしては New York Watch も存在しないかも知れない ( 苦笑 )。連想変換とは、たとえば 「 雨 」 と入力して Ctrl-Tab キーを同時に押すと 「 雨 」 と言う言葉から連想される言葉をリストしてくれるのである。たとえば 「 雨催い 」 などという候補が出てくるが、これは ATOK が搭載している辞書によると雨が降り出しそうな気配を指すのだそうだ。

日本語に関しては同じレベルの人と会話をするのが維持する一番の方法だが、やはり日常的に読書も必須だろう。振り返ってみて、はて最近読破した日本語書物はなんだったろう、と思い出せないほどである。


ところで僕なんぞは上にも書いたように 「 なんちゃって Bilingual 」 なのだが、アメリカ、特に New York では二つ以上の言語を話せる Bilingual の人が普通に暮らしている。
そういう人はたいてい移民の家庭に育った人達だが、家の中では両親の母国語を聞いて育ち、幼稚園や学校では英語を使うため、器用に使い分けることができるのである。

僕の友人にも Bilingual は多い。日本人もいれば、中国人、Puerto Rican や Cuban それに Greek やポーランド人 もいる。でも彼らの中にもコンプレックスを感じる人はいるようだ。
というのも caucasin、すなわちいわゆる白人と呼ばれるヨーロッパなどからの移民は別にして、ヒスパニックやアジア系の顔立ちをした人に対しては、両親の出身国の言葉が話せるだろうと、周りから思われているからである ( expectation ) 。
親しい友人の1人は、New York で生まれた Puerto Rican ( Nuyorican と呼ばれる ) なのだが、スペイン語は聞き取れる程度である。でもどうやら家族親族が一同に会するときに恥ずかしい思いをするようで、スペイン語が話せないのがちょっとした劣等感になっているらしい。

結局、子供の時から自然と二カ国語を話せるようになるには、家の中で使う言葉と、学校や友達と話す言葉で異なっている場合にうまく身につくようである。この場合家の中で話す言葉はどちらかというと第二言語になり、家の外で話す言葉が第一言語になる。もし子供を Bilingual に育てようと思ったら、両親が英語などの外国語で話しかけ続けるか、もしくは家の外では常に外国語・・という環境でない限り難しいと思う。
このバランスが崩れると、やはり外部で使う言葉がメインになるようだ。


「 僕はスペイン語を話せるけど、弟は英語だけ 」
こんな話もよく聞くが兄弟でも話せる言葉が異なるのは育つ環境に違いがあるからである。彼の場合は、両親が共働きだったので、学校から帰ると祖父母に預けられた。英語が話せない祖父母とコミュニケーションを取るために自然とスペイン語を学んだケースである。ところが弟は daycare に預けられたので、家の中ではわずかな時間しかスペイン語と接する時間が無く、スペイン語で話すことを拒否したとのことだ。


では大人になってから Bilingual になることができるのだろうか。
僕は無理だとは言わないが、新しい言語を習得するのが得意な人やかなり真剣に勉強しない限りかなり難しいと思う。
ちょっと前のことだが、それについてアサヒコムにちょっと興味深い記事が載っていたのでここで紹介しておくことにしよう。


さて次の10年後を目指して、このいい加減な英語をなんとかしたいが、日本語も錆び付かせないよう頑張らなくては。


ここが違う「バイリンガル脳」日英のグループが解明

ここが違う「バイリンガル脳」日英のグループが解明
2006年06月09日

 英会話のとき、ものごとを英語で考えられるほど上達した人は、脳の特定部位が活発に働いていることを、英国と京都大などのグループが確かめた。語学を効率よく学ぶ手がかりにつながるかも知れないという。9日発行の米科学誌サイエンスで報告する。

 ロンドン大のキャシー・プライス博士、京大の福山秀直教授らは、英語が達者なバイリンガルのドイツ人と日本人の計35人に、文字を見て即答してもらう課題を与え、脳の活動を機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)などで調べた。

 課題は例えば、パソコン画面に「マス・サケ」「子羊・鶏」などの二つの英単語を連続して示し、両者の関連性の有無を即答する。意味を頭の中で母国語に翻訳せず英語でそのまま考えないと対応できないように、単語を示す時間差はごく短く設定されている。

 課題中の様子をfMRIで見ると、大脳奥にある尾状核(びじょうかく)という場所のうち、その左側が活発に働いていた。ドイツ人も同じ傾向だった。尾状核の働きはまだよく分かっていないが、損傷すると、本来は語学が得意でも外国語で考えることが苦手になり、翻訳してから考えるようになる例が報告されているという。

 福山さんは「尾状核は『英語脳』『日本語脳』を切り替えるスイッチ役ではないか。ここが十分に成熟してから語学を学べば、使い分けがうまくできるようになるかも知れない」という。尾状核がいつごろからうまく機能するかはよく分かっておらず、今後の研究課題だという。

 東京大の酒井邦嘉助教授(言語脳科学)は「尾状核を含む場所は言語機能と関係することが最近分かってきている。言語機能の一部が失われる失語症も、尾状核の問題で起きている可能性がある」と話している。

bilingual.jpg

今年一月までの期限付きオープンだったアメリカ UNIQLO の SOHO 店だが、どうやら手応えを感じたのだろう、とうとう SOHO に正規路面店を開く様子。SOHO を歩いていて、改装中のビルの壁に、UNIQLO 今秋開店、と書かれているのを発見。
場所は Broadway、確か Spring St と Prince St の間だったと記憶している。

皮肉と言うべきか、それとも相乗効果を狙ったのだろうか、すぐ近くには MoMA 美術館ショップがあり、ここに日本の無印良品が並んでいる。


考えてみれば電化製品や自動車など、製品としてのメイドインジャパンはアメリカに輸入され、広く普及している。最近では日本食レストランももう当たり前に見られるようになった。それなのに小売店やホテル・レジャー・サービス、飲食チェーンはほとんどアメリカからの一方通行で、その逆はあまり見られない。
在米日本人をターゲットにした Book Off も頑張っているが、大手で非日本人を主ターゲットにして頑張っているところといえば、吉野家やファミリーマートぐらいしか思い浮かばない。


そういう意味では、小売店として日本からアメリカに上陸したのはユニクロが初めてかもしれない。果たしてアメリカに定着していくか、同胞の人間として楽しみである。


かつて倉庫街と呼ばれた SOHO は次にアーチストが住むギャラリー街へと変身した。そして今は多種多様のブランド名が掲げられたサインが並ぶ街へと変貌した。

SOHO という街は、まるで New York の人種構成の様に渋谷やパリやミラノにロンドン・・・といった街をそのまま取り込んで、ますます多国籍になっていく。


追記 :
ここしばらく写真の撮影・整理とそのポストプロセスに追われておりますが、いましばらくこの状態が続きそうです。
僕自身、元気でやっておりますがブログは簡易な更新になるかもしれません。

China Townの気

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日中は、街の騒音も物売りのかけ声もけんかしているかのように再会を喜んでいる声も全部混ざって、そこにさらに色々な食べ物のニオイまでが混ざって、無秩序がここのルールであるかのような、China Town。
昼間はあれだけたくさんの人がいて、誰から誰に掛け合っているのかすらもわからないあの大声が、ここではひとたび陽が落ちると闇のように消え失せてしまうのだ。

日夜でこれだけエネルギーの差が激しい場所も珍しい。

果たしてここは魔窟なのか。


▲ 変な構図なのはこの手前に路上駐車している車と、黒いビニール袋に入った生ゴミが山積みになっているのを避けているからである。それはそれで面白い写真になるのだが、店のイメージにはそぐわないということで・・・(笑)


日本人なら、必ず尋ねられる 「 この辺で一番おいしい日本食レストランは? 」 という質問。
もちろん場所がここ、New York なら 「 New York で一番おいしい日本食レストランはどこ? 」 となる。

きっとこのたぐいの質問は万国共通で、イタリア系移民は Best Italian Restaurant の場所を答えられなくてはいけないし、Spain 人だったらスペイン料理のおいしいレストランをすらすらと教えることができるのを期待されている。

でインド人やバングラデシュ、パキスタン系の人ならさしずめ 「 New York で一番おいしいカレーはどこで食べられる 」 という問いだろう。
Manhattan の East Village、6th Street は通称 Indian row としてワンブロックの間に小さなインド、バングラ、パキスタンのレストランが建ち並んでいる。どこもたいてい値段が一緒でメニューの名称も同じなので、このブロックの背後には大きなキッチンがあってそこで全部のレストランの食事をまかなっているのさ、というジョークが聞かれるほどである。

さてカレー料理というと確かにここが有名だが、こちらに住んでいる人インド系の移民は、ここを紹介することはまずない。その代わりに紹介するのが、Queens の Jackson Heights にある、「 Jackson Diner 」 である。
Jackson Heights は僕がいちおしのタイレストランも近くにあるし、ペルーレストラン 「 PioPio 」 もあるし、アンナミラーズ風アルゼンチンレストランもあるのだ。そういや僕が好きな Taco や Torta ( メキシコサンドイッチ ) もこのエリアにあるものは絶品が多い。


そんな Jackson Diner だがこれまでに何十回も、それこそ何百回も耳にしたが一度も行ったことがなかった。
カレーは好きなメニューの一つなので一度も行ったことがないこと自体、ちょっと驚きなのだが、今夜その願い ( !? ) がかなって行く機会が出来た。
ご想像のとおり自らその店に足を運んだわけではなくて、今日日本から知人が到着して ( 時差ぼけもなんのその ) さっそくそのレストランに行きたいということで、僕もお相伴預かったというわけである。

この知人 ( 実は有名なイラストレーター、ラジカル鈴木さん ) とは三年ぶりの再会で、つい話に夢中になって食事の様子を撮ろうと思っていたのも忘れてしまい、気がついたら閉店時刻になってしまったという次第である。

ラジカルさんとは今週他の日にも会う約束をして、ひとまずレストランを出たところで分かれ、僕は帰宅、ラジカルさんは Manhattan に向かった。

これを書いている今、腹一杯の余韻にひたりながら ( というより食べ過ぎたのでゲップをしながら、というのが正しい ) 年来の懸案事項を果たした充足感で一杯である。

おっとレストランの感想だが、確かにうまい、と思う。店内もこの写真からは想像が付かないほど広々としていて気持ちがよい。が値段は Jackson Heights での相場からすればちょっと高めか。
それと僕はビンダルーカレーを頼んだのだがそれが思ったほど辛くないのが唯一の不満であった。そういう意味では Authentic 度はそれほどでもない、と思うのだが実際のところはどうなのだろう。

乗り遅れ

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上の写真を見て直感的に 「 他の駅には無いものがここにある 」 とわかった人はかなりの NY 通といえるだろう。
一目見てわからない人も、じっくり見て探してみて欲しい。
答えはすぐこの下に書いておく。


これまでに東京、大阪、札幌の地下鉄の他、London や Paris の地下鉄にも乗ったことがあるが、どの国も地下鉄はやはり複雑である。そもそも地下に駅を作る関係で迷路のようになっているところも多い。
東京の地下鉄が複雑なのは路線の多さから来るモノだが、10年近く住んでいても未だに New York の地下鉄が複雑だと思うのは、日々変わる路線のせいである。

24時間運行サービスを提供しているから、という大義名分を最大限使用して、週末になると地下鉄はメインテナンスのためにめちゃくちゃになる。
まずスケジュールはあってないようなモノで、平日よりはるかに本数が少なくなる。
第二に片道だけしか止まらない運行モードになったりする。
これはどういう事かというと、「 当駅は下り方面だけ停止します 」 というもの。つまり上りに乗りたかったら、下り電車に乗って何駅か戻り、上り列車が停車する駅まで行けというものである。これだけでまず待ち合わせの時間には遅れてしまう。
第三は、完全な運休。
代替路線が平行して走っている路線はそれほどインパクトが無いものの、その路線以外交通手段が無いと言うときはバスの振り替え運行になるのだが、これまた異様に時間がかかる。
しかも運休になった路線のあおりを受けて、別の路線が普段は走らない路線を走ったりするモノだから、きちんと把握していないと移動するのに余計な手間がかかってしまう。
( ちなみにこういったメインテナンスの予定は MTA のホームページで告知されている )。

もっとひどいのは、後ろが使えているからと言って、即興で快速になる地下鉄もあるということ。自分の降りる駅のちょっと前になって 「 当駅を出ると次は○○駅まで止まりません。その間の駅に行く人は後続の車両を利用してください 」 と言って停車駅までプログラムしてしまうのだ。

こんなことが多いので週末の約束は、予想がつかない。


さて地下鉄の運賃に関しては、NY はとてもわかりやすい。どこまで乗っても一律 $2 だからである。それとは対照的なのが、確か London の Metro もそうだったと記憶しているが、日本の地下鉄のように乗車距離に応じて値段が変わる方式である。
それせいか切符売り場は日本の地下鉄の方が多い。それだけ切符購入の所要時間がかかるからだろう。ところがその乗車賃がシンプルに固定料金なのはいいのだが、困ったことに乗車券である Metro card の読み取り口は意外に精度が悪い。
ひどいときは何度スキャンしても読み取れないことがある。運が悪いと一つしか無い改札口で、なかなか入れない人のせいで地下鉄に乗り遅れてしまうこともある。

そこで上の写真に対する答えである。


日本ではもう珍しくないのだそうだが、New York にも非接触型乗車券が開発され、導入が始まった。今のところまだ限られた駅にのみ設置され、選ばれた人たちだけでベータテストが行われているらしい。
これはその読み取り機がついた改札口の写真である。

毎回日本に帰る度に、新しく導入されたシステムの使い方がわからず、まさに田舎者のようにあたふたしてしまう。
自動改札口で通せない切符を入れたため、けたたましいブザーとともに扉がしまったりすると、すぐ後ろにいた人が舌打ちして隣の改札に並んだりして、なんだかものすごく悪いことをした罪悪感を感じてしまう。
なんてったって自動改札口に切符を二枚も通せるなんて、New York の地下鉄にはないんだから。
( あ、そもそも自動改札口がないか )

ちなみにこの新旅券システムはクレジットカードと連動しているので、あらかじめ申請しておかなくてはならない。


次回日本に帰ったときは、僕自身 Suica だの FeliCa など持ってもない日本人なので、きっとまたあたふたしてしまうんだろう。まさに時代に乗り遅れ、乗りたかった電車も乗り遅れて踏んだり蹴ったりである。
でもこれからは New York の地下鉄で日本人旅行客があたふたする番である。これでおあいこなのである ( 笑 )。

今 New York に住んでいる人も、旅行で何度も訪れている人も必ず 「 初めての New York 」 がある。
はたしてそれまで見た映画の中の New York のイメージから来たのだろうか、僕の中ではNew York といえば Times Square のイメージがあった。

だから着いてすぐに Times Square を歩いてみようと思ったのは不思議では無かった。
そこで見たこと、感じたことは今となってはもう忘却の彼方に消えてしまったが、そのとき初めてリムジンカーを見て、なぜか New York の持つパワーを感じたのだけは覚えている。

僕の育った東京下町には無縁な存在だったし、まして映画の中やドラマで見たことはあったけれどそれは所詮遠い世界の話としてか感じてなかったから、Times Square を歩いていて目の前にスーッと大きなリムジンカーが止まり、運転手が降りてきてうやうやしくドアを開ける仕草を見て、「 どこかの国の国王が来ているのか? 」 などとびっくりしたものだ。


ちなみにリムジンカーのことを、アメリカ人は一般に省略して Limo 「 リモゥ 」 と呼ぶが、そこには単に黒塗り大型タクシー ( 日本で言うところのハイヤーみたいなサイズ ) も含まれる。
こんな風に大きなリモは、Stretch 「 ストレッチ 」 と呼んだほうが通りがいい。

今では一般の人も利用できるのを知っているから、街で見かけてもそれほどびっくりしなくなったが ( 笑 )、それでも苦笑することはよくある。
こういうストレッチでよくあるのはキャデラックなんかのいわゆるアメ車を真ん中で切断して、間に座席スペースを挟んでつなぎなおしたものが多いのだが、昨今の 「 豪華 」 に対する欲求はバラエティに富んでいて、いろんな車がベースになっている。
ここ数年前からのブームとして、ペースとなる車がセダンに加えて大型 SUV を利用したものが初めて登場した。そもそもは Fort Explorer あたりから始まったのだが、それはどんどん大型化し、とうとう Hammer のストレッチが現れたときは驚いた。

一方、セダンでもさらに高級車が使われるようになり、ベントレーやロールスロイスというもともと高級車の顔を持つくものから、メルセデス・BMW までユニークなものが増えた。特に BMW 750i をベースにしたものはかなり迫力のある顔を持ったストレッチになっていた。( が心の中では 「 もったいない 」 と思って見ていたのだが )

そんなある日、下のストレッチを見かけた。

真っ白なフェラーリを真ん中で切断して、作ったストレッチである。

やはりお金はあるところにはあるのである。
BMW 750i のときも思ったけれど、これだけ長くしてしまうとその車の持つ魅力の一つ、動力性能、は放棄してしまい、なんだかもったいない、と思うのは僕だけだろうか。

それにしても、これだけ車高が低いと乗り降りしにくく、ドレスを着ていようものならなおさら大変だろう。個人的には結構 tacky だと思うのだが、今一番目立つストレッチであるのには間違いないだろう。


この写真を撮ったすぐ後ろにはホテルがあり、その入り口の横にはホームレスの人が何の興味もなさそうに寝そべっていた。

初めて New York に来た頃は足が地面に着いていなかった。華やかな姿ばかり目を取られていた。
でも今はこんな対照的な様子がこの街らしいと感じている。

New York で以前もフェラーリやランボルギーニを間近にみたことがあるのだが、このランボルギーニは初めて見た。
インターネットで調べてみると、Gallard というモデルらしい。

こんな車高の低い車、New York みたいに道がガタガタなところで走る人いるのか、と思いながら、公式サイトで Gallard を選び、movie のところをクリックすると・・・おそれりました。New York の街でこの車を乗りこなしていた。


ちなみに僕はちょうどスーパーカーブームに育った世代で、晴海のモーターショウに見に行ったのを覚えている。
このとき、つややかなイタリアからやってきた彼らは、まさに僕の目にはドリームカーと映り、実際に動くのを見たことがなかったのでどこか非現実な世界であった。
ところが金持ちはとことん金持ちである、という国に来るとそれまで見たことがない車が現実の世界で走っているのである。
僕が働いている会社の駐車場にも真っ赤なフェラーリが数台停まっている ( 1人は若い女性役員が乗りこなしている )


話を Gallard に戻すと、この車を見つけたところからプロジェクトビルディング並ぶ Ghetto まですぐ目と鼻の先である。
New York という街がいかにアンバランスな秩序でなりたっているのかを目の当たりにした思いである。


・・・それにしてもこの止め方。
道の真ん中である。 それでも許せてしまうな、こりゃあ。


Lamborghini

http://www.lamborghini.com/

New York にちなんだニュースで、興味深いものがあったので紹介しようとエントリーに保存したものの、ついぞ忘れて 「 未公開 」 状態のままであった。せっかくだから修正・加筆して紹介することにした。





14足の靴と50足の靴下。


これは1人の男性が California 州から New York 州、New York 市まで、徒歩で旅したときに消費した履き物の総量である。
これだけ広大な国土を何でまた、歩いて横断したのか、ちょっと気になって新聞を読んでみた。メディアの話をまとめるとこんな感じである。

California の Oceanside に住む Steve Vaught ( 40歳 ) は15年もの間、精神的な苛まされてきた。15年前のある日の夕方、彼は自分の運転する車で年配のカップルを交通事故で死なせてしまい、刑務所には10日間囚われただけであったけれど、その後何年も間鬱病に囚われることとなったのだ。
仕事も長続きせず、職場を転々としているうちに、一家の家計はすっかり傾いてしまった。
彼自身体重が増え続け、410ポンド ( 注 およそ185kg ) にまでなってしまった。

そしてある夜、なぜか彼は歩くことを決意する。彼には二人の子供と奥さんがいるが、奥さんも彼が彼らしさを取り戻すならと賛成したという。
実際、歩き始めたときは大陸を横断するなど考えてもいなかったようで、真夏に沙漠を歩く羽目になったり、冬の厳しい時期にもっとも冷え込む Midwest を歩くなどまさに無計画だった様子がうかがえる。

道中、安モーテルに泊まれるのはましな方で、野宿を強いられたこともあった。
そしてやはりというべきか、カリフォルニアで過ごしていたときよりさらに Depression ( 鬱気味 ) になることが多かったそうだ。

北米大陸を徒歩で横断する、などというとなにかアナログ的だが、奥さんはこの旅を記録するために、ウェブサイトを立ち上げた。すでに200万人もの人がこのサイトを訪れ、様々な形で Steve を応援した。


自宅を出てから13ヶ月。
ようやく New Jersey 州から George Washington Bridge を渡って New York 州に入ってきた。
歩いた距離は2800マイル ( 4480km ) を超え、体重も100ポンド ( 約45kg ) の減量に成功した。残念ながら横からサポートしていた奥さんとは協議離婚という結論に至ったようだが、彼自身は何かをやり遂げた自信がついたようだ。

歩いてアメリカを横断するなんて馬鹿げている、というのは簡単である。けれどもそれをやり遂げた人だけが、その旅が無駄だったのかどうか、いえるんではないだろうか。

「 2800マイルという距離は、この旅ではそれほど意味が無かった。」
「 アメリカ人はこの旅が、シンプルな結果に終わると思っていたようだ。San Diego を出発したときは Rodney Dangerfield ( コメディアン ) だったけれど、New York で目が覚めてみたら George Clooney ( まあ、言わずとしれた2枚目俳優の代名詞 ) みたいにもてはやされて・・・。でもそれはホントの世界じゃない 」
「 ずっと最悪の日々だった。でも今は何もかもサイコーだ 」

旅の終わりの彼のコメントである。

このニュースを聞いて、僕は一体どこを歩いているのか、わかっているのだろうか、と考えてしまった。



▲ 果たしてこんな道を歩いてきたのだろうか。

Steve Vaught 氏の HP

The Fat Man Walking
ここで旅の途中の写真やブログを見ることが出来る。



ABC News


Man Crosses Country on Foot, Loses 100 Pounds

May 9, 2006 — He's gone through 14 pairs of sneakers and 50 pairs of socks. He's had stress fractures and blisters.

But after a year spent walking across the country, Steve Vaught has gone 2,800 miles, lost 100 pounds and tried to find himself.

"For me, the scales, the miles, they mean nothing," he said as he closed in on his finish line, the George Washington Bridge that connects New Jersey and New York. "It's been the journey, it's been this experience that has really counted, really mattered."

Vaught, 40, is from Oceanside, Calif., where he said he left a supportive wife and two great kids.

But he was also running from his ghosts. Fifteen years ago, driving into a brilliant California sunset, he ran over and killed an elderly couple. He spent 10 days in jail and years in deep depression.

He drifted from job to job. The family finances dwindled. His weight spiraled to 410 pounds. He referred to himself as Forrest Lump. Co-workers gave him a hard time about seeming listless and sitting down too much.

"When something like that happens to you," he said as he passed Teaneck, N.J., "you think you can wrap your mind around it and move on. And you can't without help. I just descended to a point where I didn't care. If someone stole my car, I didn't care. If I ballooned to 410 pounds, I didn't care."

One night he finally decided to walk it off. His wife, April, was eager enough to see him better that she agreed to back him.


13 Months on the Road

Vaught acknowledged he did not plan his trip very carefully. He wound up crossing the deserts of California and Arizona in the heat of summer and the Midwest plains in the dead of winter. He stayed in cheap motels when he could afford it, which was not every night. Many days, he said, he was more depressed than he had been back home.

"I think that most Americans want this to be a simple thing," he said. "You leave San Diego sort of Rodney Dangerfield. You wake up in New York, you're George Clooney, and everything's perfect. But that's not the real world."

The virtual world was kinder to him. He started a Web site, "The Fat Man Walking," on which his wife posted journal entries for him. The site has had 2 million visitors, and 80,000 of them have sent him e-mails, almost all of them supportive.

"Change comes from hardship," he said, "and getting through those things is really, really a character-building thing if you make it."


2,843 Miles


Vaught had hoped to make 20 miles a day but came nowhere close. He miscalculated what he ought to be eating — on a diet high in protein, he wound up with two kidney stones. He did lose weight, but the going was slow. And the strain on his family was too much. He was down to 280 pounds when he and April finally decided, by long-distance, to divorce. Since then, he said, he's regained about 30 pounds.

But he kept going and going and going. He calculates the total distance at 2,843 miles. "It was such a rush to come over the hill and see the skyline of New York," he said.

What will Vaught do now? He said he's not sure, and he's not sure it's important.

"It has been absolutely horrible," he said, "and absolutely wonderful."

BREAD TRIBECA 2

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ちょっと前に紹介した BREAD TRIBECA での会食だが、そのときに少し写真を撮ったので、店の雰囲気が少しでもわかれば、と紹介しておくことにしよう。

本当はもっとたくさん撮ったような気もしたのだが、なにせ最初に頼んだハードリカーとその後のワインを飲んでいるうちに写真を撮るのをすっかり忘れて、食べるのに没頭してしまった。
気がつくと店内はブランチというには遅く、ディナーには早いという中途半端な時間になり、店内の客は僕らだけになった。

もうこの頃になると皆満腹になり、すっかり貸し切り状態になった店内で僕らはちょっとばかり傍若無人ぶりを楽しんだ。


▲ M さんは今回の旅でレンジファインダーカメラを持って New York の街を撮影。ちょっとポーズを取って貰う。


▲ I さんは空いているテーブル席に腰掛け、にわか撮影会になる店内(笑)。


5月の風は暑すぎず冷たすぎず、道に向かって大きく開け放たれた窓から爽やかな一陣の風が吹き込んできた。

日本から、そして New York から。10数人が集まって同じ空間を過ごした記憶は、このときの風のようにいつまでも爽やかなままで。

もう過去に何回紹介したことだろうか、今年も五番街が年で一番にぎやかになる日がやってきた。
National Puerto Rican Day Parade である。

いろいろな国のパレードやストリートフェアが New York のあちこちで行われているが、ネットワーク局が特定の国のパレードの様子を放映するとなると、この Puerto Rican Parade だけなのである。それだけこのパレードの規模の大きさはわかってもらえるだろうか。
昼頃テレビをつけると、FOX テレビが早速その様子を生中継で紹介していたが、パレードの参加者は年々増え続けているのだとか。さらに来年は50年記念ということで、これまで以上に大がかりになるという。Puerto Rican パワー、おそるべしである。

その番組の中でキャスターが、目の前を通り過ぎるフロートに載ったセレブを見かけるたびに声高に紹介している。
パレードの割と早いグループには Jennifer Lopez と Marc Anthony が来ていたとか。二人はまさに Puerto Rican カップルなのである。


この日、出かける用事があったので途中五番街で下車して、様子を見てみることにした。
そういえば何年か前は、ハプニングとはいえ Puerto Rican Parade のフロートに乗せられて、街道沿いを埋め尽くす Puerto Rican たちに圧倒されたっけ、などと思い出しながら地下鉄口から地上に出ると、そこはすでにレゲトンがつんざくような大音量で鳴り響いている

毎年のようにこのパレードの様子を目の当たりするのだが、そのとき常に感じるのは、Identity に対する強い Pride である。Puerto Rican と一口にいっても黒人から白人まで、中には Asian ミックスまでいて肌の色からだけでは人種を特定できない。また New York に住んでいる Puerto Rican は、僕の友達も含めて、カリブ海の Puerto Rico という島とはほとんど関わりがない。行ったことも無いという人もいる。けれども英語を習うより先にスペイン語が体にしみこみ、サルサのステップとともに育ってきた彼らにとっては、血の中に流れる文化そのものが Puerto Rican としての Identity なのだろう。

どうして国に対する意識が僕らとこうも違うのだろうと、深く考えさせられるのだった。

普段、買い物客でごった返す5番街だが、この日はその買い物客が完全にマイノリティになった。日本人の姿も見かけたがこのパレードのパワーに圧倒されているようだった。
Puerto Rican だらけの中、彼らがその Identity を確認しているように、僕も自分の Identity について考えているのだった。

それにしても、隣にいたのは全員十代前半 ( 一人だけ弟とおぼしき10歳以下の少年もいたのだが ) の少年グループ、5~6人だったが、昼真っからハッパを吸っていた。さすが Puerto Rican ( 苦笑 )。

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