2010年5月アーカイブ

Reflection

| コメント(4) | トラックバック(0)



「いやに今日は蒸し蒸しするな」と思っていると案の定通り雨が降ってきた。
傘を持っていなかった僕は他の人たちと同じく、難民さながら雨がしのげる場所を探して右往左往する。


程なくして雨がやむとそれまで人通りが途絶えていた歩道に、予定を取り戻そうとたくさんの人が出てきてちょっとした混雑になった。あちこちにできた水たまりをいまいましそうにして大きく迂回する横で、僕はというと足下に広がった虚像をのぞきこんでいた。


地面に広がった空は汚泥色に染まり、決して美しくは見えないけれど、この水たまりの向こうにはまるで別の世界が広がっているかのようで、僕は虚像を通して実像を探している。


5月のとある雨上がりに。



※ブレッソンの写真に触発されてB/Wで撮ったスナップ写真を掲載してみた


Henri Cartier-Bresson アンリ・カルティエ=ブレッソンと言う人の名前は写真を撮る人なら知っている人も多いだろう。フランス生まれの写真家で、かのマグナムフォトの結成に携わった人でもある。マグナムフォトの他の写真家に会ったときのエピソードについては過去に紹介したこともあるが、ブレッソンは故人である。

スナップ写真でも有名な彼の写真展が MoMA で開催されると聞き、足を運ぶことにした。
これまでまじまじと作品を見たことがなかったのと、僕自身よく撮る、ストリートスナップについて彼の作品を一度にまとめてみることで自分自身を振り返るよい機会になると思ったからである。


仕事がら平日の時間も割と融通が利くので、比較的すいているだろうとふんで水曜日の昼過ぎに行ったのだが、予想は見事に裏切られ、彼の特別展コーナーは多くの鑑賞客であふれていた。
自分のことは棚に上げて 「 平日の昼間だというのに、一体どこからこんなにたくさんの人が? 」 と思うが、これが New York らしくもあると、ふと気付く。

個々の写真のディテールなどのインプレッションは省略するが、スナップ写真の本質のようなものについては認識させられるものがいくつかあった。
それは「ガツン」と受けるようなショックではなくて、すんなりと吸収できるもので時代がかわっても本質的には普遍の原理なのかもしれない。

一般に写真の構図を考えるときに足し算引き算がひきあいに出されるが、僕も写り込みたくない被写体をあえて外すなどして撮ることが多い。
ストリートスナップを撮っていてもつい欲張って、バランスとして邪魔な存在がするとあえて構図を変えたりして写り込まないように「操作」してしまうものだが、そこに写ったクルマの年式や歩行者の髪型や服装といったものは、時間とともに時代を表すものとして表現価値のあるものになっていく。
スナップ写真にとって時間を閉じ込めるということは、エッセンスというよりはむしろもっと強い存在の必要性があるのではないかと思う。

すでに僕が New York に来てから撮った写真の中には、すでに破壊されて存在そのものがなくなったり、姿かたちを変えてしまった被写体が少なくない ( ビルや車など )。たかだか10年ちょっとだがされど10年でもあるのだ。
今回の写真展を通して、僕が撮り続ける次の10年がまた見えてきそうだ。


話はかわるが、MoMA では他に 「 The Artist Is Present 」 という特別展を併設している。
ユーゴ出身のアーチスト、Marina Abramović という人の作品なのだが、アーチスト自身がアートとして会場でパフォーマンスをしており、現在注目を浴びている。
その中で特に大きな話題となっているのが、狭い通路に全裸のダンサーが二人立っており、その間を鑑賞客が通り抜けるようになっている展示である。もちろんその間を通らなくてはいけないわけではなく、迂回することもできるのだが興味のある人は是非トライしてみるといいだろう。
MoMA の公式サイトに掲載されている写真によれば女性モデルが立っていることもあるようだが、僕が行ったときはむくつけき男性モデルが顔一つ分間をあけて向かい合って立っていた。
これまでアートを対峙するときは受け身であることが多かったが、この場合見る人の感情がアートとどのように交差するのかという試みのようにも思えた。もちろんそれがアーチストの意図するところではないのかもしれない。
実際にその展示ルームに入るとちょっとした列ができていたので僕もそれにならび、一人ずつ通り抜けていく。自分の番が近づいてくるとどんな人がどのように立っているのか見えてくるのだが、いざ自分の番が来ると自分でも意外なことに、あがってしまった。それは衆目の中、裸体の人間の間をとおりぬけるということで自分も瞬間的にではあるが見られる対象になるからである。
それまでは普通に写真や彫刻など冷静に見ていたのだが、満員列車の中の乗客をおしわけるようにして二人の間を通る段になると男性の下半身 ( どうやら二人のモデルのうち一人はかなり立派なモノを持っていたようだ ) が僕の体にあたるため芸術を見に来たという純粋な気持ちがもやもやとしたもの、どこか恥ずかしい気持ちに変わってしまった。
ある意味、これは見る人をテストする、敷居の高いアートなのかもしれない。
実際裸体の男性の間を通り抜ける瞬間に恥ずかしい気持ちになり、すばやく通り抜けようとして男性モデルの足を軽く踏んでしまい、さらに赤面することに。
アーチストがこのアートを通して観客にチャレンジをしていたのだとすると僕は間違いなく failure だろう。実際に見に行った人がいたらどんな気持ちになったか確認してみたいものである。

アートに対する自分の心構えを試してみたいという方、是非訪れてみてはいかがだろうか ( それがアーチストの狙いではないのだろうけれど )

Henri Cartier-Bresson: The Modern Century展

展示期間 : March 14-May 31, 2010

MoMA

虫取り網

| コメント(1) | トラックバック(0)


うちの近所には昔ながらの商店街がある。
どの街に行ってもどの州に行ってもあるような national fast food chain や大手の衣料チェーンストアが我が物顔して店を並べる一方で昔ながらの家族経営の店があったりして、この街に住んで10年以上になるというのに「こんな店が昔からあったのか」と驚くことも少なくない。

先日も小さな玩具屋があることに気がついたのだがそれは店頭に虫取り網が置かれていたからだ。
子供用の玩具を買うことも無いので普段はこの店の存在に全く気がつかず通り過ぎていたらしい。それだけ虫取り網が視覚を通して僕の心の中の何かを刺激したのだろう。

僕が生まれ育った東京の下町は当時まだあちこちに空き地があったり、なんともいえない異臭を放つどぶ川などがあった。
それでも夏ともなると虫取り網と捕まえた虫を入れるための虫かごを肩からさげて、朝から冒険に飛び出したものだった。
沼地ではザリガニを捕ったり、夏は昆虫を捕まえるなんてことはあたりまえにできる環境だったのだが昨今はそうもいかないのだろう。
引っ越ししてから一度も訪れていないのでいったいどんな風に変わってしまったのか予想もつかないのだが、そこはテクノロジーのおかげで Google ストリートビューなどで最近の様子が New York にいながらにして手に取るようにわかるようになった。
それによると当時のどぶ川は暗渠になり、空き地もすべて住宅地に変わったようだ。


そういえば New York では虫取りをする子供たちの姿を見たことがないことに気がついた。
僕が初めて New York に来たン十年前ですら、市内には子供が遊べるような空き地などなく、バッタやかなへびなどついぞ見たことがない。おそらく Central Park ほどの大きさの公園にでも行けば蝶やバッタなど見つけることができるだろうが、子供にとっては徒歩や自転車でいけるところがテリトリーなのでほとんどの New York の子供たちにはなじみがないのではないだろうか。

考えてみれば、僕自身 New York に住んでからと言うもの自然に接する機会が減っている。それは東京でも同じかもしれないが、少なくとも僕らの記憶の中には昆虫を自分の手で捕まえたり、飼育するという遊び方があった。


土が露出している地面などほとんど無い New York でもこうして色とりどりの蝶がストリートを彩っていてる。
おしむらくは本物の昆虫に接する機会がもっと多く子供たちにあるといいのだが。

カレンダー

<  2010年5月  >
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

このアーカイブについて

このページには、2010年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年4月です。

次のアーカイブは2010年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて
Powered by Movable Type 4.21-ja